精神分析記念財団

仕事の後に東京に寄り、小寺精神分析記念財団にに行ってきた。移転するので前の代表で恩師の狩野力八郎先生の蔵書を無料配布するという連絡が入ったからだ。

 毎年、講義で訪れている。壁には日本の精神分析の歴史を作った人達の遺影が並ぶ、私の経験と直感だが、精神分析に対して拒否的な精神科医や心理士、親和性を持つ精神科医や心理士と二分されるのは、この学問くらいではないだろうか。

 精神分析を嫌うのはかまわないし、他の精神療法をまともに学んでいるならよいが、日本で精神療法研修システムが脆弱のために、なんちゃって精神療法が多い。

 「辛かったねえ」「大変だったねえ」とは誰もが言えるが、この時、精神分析医は患者が退行して「母や父に慰めてほしい」という転移感情を理解しつつ、自立できるように対応するが、寄り添いだけを続けていると患者の自立性を損なうことを知っているからだ。やがて患者は優しさだけに不満を持っていく。そして医師に否定的感情を向けはじめる。精神分析的理解がない自己愛的な医師だと「優しくして時間をとっているのに、何だ!」と横柄になっていく。これは、もう患者が体験してきた親と同じである。

 親には言えなかった言葉、親に言いたかったことを精神科医にぶつけられたら、治療関係は成立する。親が怖くて、迎合して、合わせて生きてきた人は、医者の前でも迎合して一見良い子であろう。でも、自我が成長して、親には言えない示さない態度を示してくれた時、患者は成長している。

「先生は、私にどうなってもらいたいんですか」「それは、自分で考えることだ」「そうやって、責任転嫁する」「ちがうよ、人生は自分でつくるものだ」「でも・・」「最近は、自分の意見を言えるようになったじゃないか、それが自立だよ」・・怒っていた患者は納得する。

 恩師からは精神科医は「自己愛の傷つきに耐えることだ」と教えられた、けなされ、踏まれても、患者が自立し人生を歩む方向に向かえば治療は成功なのだ。私は一見、冷たいとか、よりそってくれないと評価をもらうし、本気で怒ることもある。でも精神分析の目的は個の確立と自立だから。自己愛やプライドの傷つきで怒るのではない。患者のために本気で怒る必要性も恩師から学んだ。

藤村邦と渡辺俊之のブログ

精神科医をやりつつ小説や新聞のコラムを書く藤村邦(渡辺俊之)のブログです。