思い出の場所
内的対象というのは人(家族、先生、コーチなど)として使われるが、時に「場所」も内的対象になる。
「内的対象としての場所」とは、特定の人物との関係や、その場所で経験された感情、身体感覚、記憶が内在化され、現実の場所を離れた後も、個人の心の中で持続的に作用する心的表象を指すわけだ。場所は単なる出来事の背景ではなく、失われた人物や過去の自己、家族関係を保持する器として機能している。
前にも書いたかもしれないが、私の内的対象としての場所は、田舎の木造の小学校、そこにあった保健室から見た中庭の景色だ。緘黙症で大人しい私は、小学1年の時に保健室によく行った。自分で行ったのか保健室の先生に呼ばれたのか忘れてしまった。小学1年の頃は毎日行ってた気がする。保健室には縁側があって、私はそこに先生と座って中庭をぼんやりと見ていた。暖かい雰囲気に包まれていたあの頃のあの場所に、また座りたいと時々思う。カガミ先生と名前も覚えている。
あとは鹿沢国民休暇村で朝に歩いた高原への山道だ。母と祖母と弟と四人で歩いた。小学五年くらいだったか。すがすがしさのようなものを始めて体験したのかもしれない。
十五年前に担当したが、がんは女性は「海が見たい」と言っていた。海には行けなかったが、連れて行くこともできなかったが、私は小説の中で、彼女を海につれていくことにしたのだ。
末期がん患者さんと会うこともある。「行きたい場所はありますか?」と聞きたいが、聞けない。もう行けないの、からだ。でもときどき患者さんが自分から言ってくれることもある。
「家族でいった霧ヶ峰に行きたい」と聞いたことがある。もう行けなかったが。
祖母は亡くなる前に祖父と行った瀬波温泉の話をしていた。たぶんもう一度行きたかったのだろう。
どこから声が聞こえてきた「先生はどこですか?聞くだけ野暮か、岐阜屋でしょ」
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