主要対象という存在

 私達には、安全、安心、回復への力を与えてくれる「主要対象(一次対象)」という存在が心の中に必要である。主要対象は、私達が思い出せない、乳児期に私の心(脳)に形成される。乳児が不安、不快、空腹の時に信号は「泣く」だけである。その信号を受け取り、適切にマザーリングが提供されれば、私達の心に主要対象が生まれ、そして一生涯、私達を支える。ところが、過酷な家庭環境、母親のメンタルが不安定、母親自身の主要対象の問題などがあると、乳児の心に、安全、安心、回復への力を与える主要対象が育たない。

 乳児とって環境は、母親(もしくは養育者)だけなのだ。ウクライナでも、シリアでも、アフリカでも、戦時下の日本でも、震災の時の日本でも、乳児は母や多の人に抱かれてていれば、安心や安全が育つのである。私達は泣いたら母親が抱っこしてくれて、安心や安全、そして栄養(母乳やミルク)を提供してもらっていた。少し視界が広がると後追いしたり、母親いることを確認し「あ、いた!大丈夫」と感じるようになれる。母親がいなくても母親はまた帰ってきてくれると思えるようになる。記憶も発達するので、実際の母親がいない時には心の中にある母親を活用できるからだ。そして主要対象として私達を一生支えていく。

 主要対象が安定して心にあれば一人で生きていける。野口英世が東京→アメリカ→ガーナと医療に貢献できたのは、彼の母親が心にいたからだ。

 境界性パーソナリティ障害では主要対象の存在が不安定だ。愛を提供する人がいつもいてくれるという確信が持てないのである。そのため、慢性的に空虚で、行動としては「別れられる前に、自分がから別れる」を繰り返す。オールグッドな対象をオールバッドにして「さよなら」である。突然の気分変調は心の中で主要対象が不在になる時なのであろう。そういう時、彼らは自傷、時には自殺まで、メンタルが落とされる。それはそうだ。乳児期にとって母親がいない時、帰ってこない時、そこにあるのは「死」だからだ。

 境界性パーソナリティ障害を直す薬はない。二次的に生ずるうつ状態には抗うつ剤、突然の凹みにはバルプロ酸ナトリウムを使うくらいしか出来ない。力動的精神療法か弁証法的精神療法しか方法はない。

 境界性パーソナリティ障害は不安定な対人関係や行動化(リスカ、大量服薬など)のために診療を拒む精神科医もいるのは残念だ。こうしたケースは精神分析を学んでないとアプローチできない。だいぶ前だが、ある病院が「境界性パーソナリティ障害はお断り」と掲示していた。やり過ぎである。境界性パーソナリティ障害はしばしば精神科医を理想化してオールグッドにすることもある。しかし、これは過剰適応だ。いずれ脱価値化つまりオールバッドにされる。この時に耐えれない精神科医は多い。自尊心や傷つき、プライドも傷つく。オールバッドにされた精神科医に紹介状を書かれ「捨てられた」のである。その後、彼女は電車に飛び込み両足切断し病院にやってきた。

 境界性パーソナリティ障害では主要対象の存在は不安定だ。愛を提供する人がいつもいてくれるという確信が持てない。だから「いつもいる」という「対象恒常性」を獲得してもらうことが重要になる。精神分析を学んでなくても、長年、かれらに付き合ってくれている精神科医もいる。たぶん感覚的に自分ないなければという使命感があるのだろう。

 私が大学生から研修医時代、喪失体験の後や凹んだ時、「悲しみにさよなら」をよく聴いた。この歌詞に支えられていた時代があったが、私の心にある「回復への力」を引き出してくれたのだろう。10年以上前に亡くなった母親は主要対象として、永遠に私の心に生きていると思う。なんとか80年代の動画を発見できた。


藤村邦と渡辺俊之のブログ

精神科医をやりつつ小説や新聞のコラムを書く藤村邦(渡辺俊之)のブログです。