恩師逝く
4月14日の深夜に連絡が入った。私を精神科医・精神分析に導いてくれた岩崎徹也東海大学名誉教授の他界を知った。3月に亡くなったが、納骨が済むまで知らせないとほしい、また「忍ぶ会」などの会は一切しないでほしいということで、ご家族だけで葬儀をすませたようだ。先生には本当に世話になった。何度か同窓会誌や学会誌にも書いたことがあるが、忘れられない大学6年生の体験がある。私は目立たない学生だったし、劣等感も強かった。ときどき生ずる激しい孤独感や落ち込みがあったし、夕方になると酒ばかり飲んでいたし(今ならその理由は理解しているが)。6年生の冬に私は精神科教授室を訪ねた。
「精神科医になりたいんです」「そうか、君はあまり見ないな」「ええ」
程度の会話で「ああ、ここも自分を認めてくれない」と寂しく部屋を後にした。ところが、その後の先生は違っていた。職員・学生食堂で私を見かけると先生は手を上げて「よお」と挨拶してくれた。岩崎先生は背が高く、若い頃は田村正和ばりの慶応出身の岩崎家の長男。橋にも棒にもかからない医学生が始めて母校で認められた気がした。私は、先生がくる時間に、食堂で待機したこともある。父のいない私には父のような存在であった。
精神神経学会誌に掲載された「精神療法研修があたえてくれたこと」という論文の「おわりに」だけ掲載させてください。先生と最後に会った最後の時の思い出だ。
おわりに
2019年4月、シンポジウム準備のために岩崎徹也先生のご自宅を訪ねた。先生は奥様の介 護をしながら二人で生活していた。そこでも、人としての精神科医、岩崎徹也に出会うこと になる。奥様に「今日はたくさん食べたね」とか「お茶を飲むかね」と話しをする姿がそこ にあった。優しい人柄は変わっていない。先生とウィスキーを飲んでいるうちに、私はすっ かり良い気分になり、ずっと前から先生に聞きたかったことを聞いてみた。
私の母が卒業式の謝恩会に叔父と一緒にやってきた時の出来事。群馬の田舎から、自分で 縫った服を着てやってきた足の悪い母が見窄らしく見えて、私は遠く離れた場所にいた。し かし母のことが気になって遠目にチラチラと見ていた。母は椅子がなくてウロウロしてい る。その時、岩崎先生は座り場所を探していた母に椅子を差し出してくれたのだ。あの時の 真意が私は30年以上気になっていた。私はこのエピソードを同窓会誌などには書いたが、 あの時の岩崎先生の気持ちを知りたかった。
「謝恩会で先生は私の母親と知っていて椅子を差し出してくれたのですか」と問うと、 「いや、違うんだよ。知らなかった。ただ、あんなふうに田舎から出てきた、子ども思いの お母さんがいるのかなあと思ってね」と語って微笑んだ。「そうでしたか」と先生に勧めら れたスコッチを飲み私は涙を拭った。
最後に若い精神科医達に送りたい言葉がある ー弟子は、師を見てはいけない。師が見ているものを見なければならないー
「岩崎先生はレッドツェッペリンのロバートプラントに似てます!」と言ったことがあるが、手をたたくところ、クビをひねるところ、涙ぐむところがそっくりだと思ってる。風格も似ている。
先生は「誰だねその人は」という感じだったけど、私だけだろうが、私はいつも、先生を思い出す。
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